プロフィール

1983年生まれ。大学進学を機に京都市に定住。2005年、仲間と共に劇団「笑の内閣」を旗揚げ。中京区内の京都芸術センターを中心に地域の方々と関わり合いながら、社会問題をわかりやすく紹介する風刺コメディ作品を作り続け、北は札幌南は福岡まで全国各地のほか、海外ではソウルまで世界を股にかけ公演を行っている。
劇団活動以外では、批評誌への寄稿や、高校演劇の審査員・講師なども行う。2014年より特定非営利法人京都舞台芸術協会理事。

1983年 北海道 日高町生まれ
1999年 高校から演劇を始める
2002年 大学進学で京都に、佛教大学の学生劇団「劇団紫」に入団
2005年 仲間と共に、劇団「笑の内閣」を旗揚げ
2009年 Kyoto演劇フェスティバル短編部門最優秀賞
2010年 東京や、故郷北海道などでの他地域での公演も開始
2013年 福山哲郎参議院議員と協力し、永田町で公演を行う
      国際コメディフェスティバルコント部門優秀賞
2014年 NPO法人京都舞台芸術協会理事
      こりっち舞台芸術まつり準グランプリ
2017年 ソウル演劇協会の協力のもと、韓国ソウル公演を実現

他、主な活動

株式会社ゲンロン 批評誌「ゲンロン」寄稿
 その他、寄稿多数
高校演劇 京都府大会 京都南部支部地区大会 審査員
中部高校演劇連盟 能登永観堂ワークショップ講師
 その他、ワークショップ講師多数

主な地域活動
京都芸術センターでワークショップ、公演を開催。

好きな食べ物
ラーメン→ちぢれ麺がこだわり
納豆ごはん→関西でも好きな人が増えて嬉しいです

趣味
歴史探索→歴史が大好きで、大学は史学科に進学しました
野球観戦→北海道で身の回りに誰もいないのに、暗黒時代から阪神ファン。甲子園に通いたくて関西の大学に進学したほど。パは地元日ハムファン
ボードゲーム→2015年には、ドイツのボードゲーム「カタン」の近畿チャンピオンである、「なにわのカタン王選手権」で優勝しました

尊敬する人物

高校時代の演劇部の顧問の先生→演劇だけでなく、人生の恩師です。


誕生

私、高間響は1983年、北海道門別町(現・日高町)に生まれました。シンボリルドルフ、スペシャルウィーク、キタサンブラックなど数々の名馬を生んだ馬産地であり、人気漫画ゴールデンカムイの舞台の一つのアイヌの聖地である日高で、教員であった両親の下育ちました。


私の原点1 父の教え


私の原点は両親の教育です。両親は共に音楽の教員でしたので、名前は響になりました。私は母も大好きですが、私の思想に大きく影響を与えたのは、53歳の若さで亡くなった父です。父は、旅行好きで私にたくさんの経験をさせてくれましてそれが大きな礎になっていますが、それ以上に原点と言えるのが音楽と共に理科の教員を持つ変わり種の教員で、常に科学を大事にし、それがゆえに「怒っている人」でした。それは短気だという意味ではなく、世の中の理不尽、不公正に対して常に怒っていました。政治に対して常に怒っていたのが私の政治への興味の原点です。それ以外にも世の中の理不尽に怒っていましたし、筋金入のアンチ巨人で審判のジャイアンツ贔屓や金満補強についても毎日中継を見ながら怒っていました。特に私に影響をもたらしたのが、「ニセ科学批判」です。「心霊現象」「超能力」「UFO」「ノストラダムスの大予言」などを取り合げた超常現象番組を見ては、「不安を煽るインチキ」と怒って、私にテレビを見ながら「どこがトリックかを見抜け」という課題を与えることまでしていました。父は教育者として「信じることの大切さと同じくらい、疑うことが大切だ」ということを教えていたのだと思います。私は理科が苦手でしたが、それこそが、まさに「どんな世界にいても客観的なデータ」を尊重し、政治においてもそれを元に判断していくという原点になっています。

私の原点2 発達障害を乗り越えて


そして、小さな頃、私は発達障害でした。小学校の段階で、怪獣の名前や世界中の国名と国旗の名前、戦国武将の名前などを大量に覚えたりと得意なことには異常な能力を発揮しましたが、全く片付けられない。黙って座っていられずずっとウロウロする。人の目を見て話したり、そもそも話を聞けず集中力がなくなり、空気の読めない言動をする。服装もちゃんと出来ないし、トイレの電気を消してこれない。そんな私を見て母は、「子育てに失敗した」「このままでは社会に出て働くことができない」と悩んでいたそうです。しかし、当時は知られていなかった、「発達障害」であるということがわかり、適切な治療を得た結果、「治るもの」ではないので、今でも一般的な人よりもうっかりミスが多いですが、その分助けてくれる仲間に恵まれ、なんとか社会で生きていくことができています。

発達障害は、その分得意なことには高い能力を発揮します。その一つが演劇でした。小さな頃から学芸会は大の得意。そして、中学校の時に深夜のBS放送で見た、古畑任三郎や真田丸などでおなじみの三谷幸喜さんの舞台「笑の大学」を見て、「こんな作品がしたい」と思いました。しかし、三谷さんは「他人に上演許可を出さない脚本家」です。そこで「自分で書くしかない」と脚本を書き始めました。高校入学を機に演劇を始める。大学進学した佛教大学の劇団、劇団紫を経て、2005年に仲間とともに、笑の大学からとった「笑の内閣」を旗揚げしました。

私の原点3 笑の内閣の活動


笑の内閣は、はじめ芝居中に実寸大のリングを組んでプロレスをするプロレス芝居などをしていました。木屋町の老舗のバーでバーデンターのアルバイトをしながら演劇活動に取り組み、本格的にブレイクしたのは2010年、「非実在少女のるてちゃん」という作品です。当時、東京都では「青少年健全育成条例改正案」という条例が審議されていました。これは、漫画アニメに登場する未成年のキャラクターが、性的なことや暴力的なことをするような創作物は販売を規制するというものでした。当時のわたしはいわゆるアニオタを「キモいキモい」と馬鹿にしていたので、最初「そんなもの子供に見せるわけにはいかないよね、いいことじゃない」と思っていました。しかし、漫画アニメが好きな劇団員が「表現規制」につながることだから調べてくれとと言われと結果、重大な問題があることがわかりました(ちなみにその時、国会議員の立場として問題を指摘した一人が枝野さんです)。それを面白おかしく紹介するコメディを作ったところ、大評判を得て笑の内閣は時事ネタ路線にシフトチェンジをしました。

風営法でダンスが規制されている問題を扱った時は、当時風営法改正議連の副会長であった福山さんから、「改正反対派の議員の説得材料にするから永田町で公演しろ」と言われ、永田町公演を実現。結果、風営法は改正され、「芝居で世の中を変える手助けになった」というのはとても達成感を出せました。

私の原点4 そして市政へ



笑の内閣では「ヘイトスピーチの問題」「女性差別の問題」「人権の問題」などを取り上げました。原発の問題を取り合えげた時は、福島第一原発の沖で釣りに行ったり、チェルノブイリまで取材に行ったりととことん現場主義で頑張ってきました。その結果、東浩紀さんが主宰するゲンロンカフェへの登壇をはじめ、内田樹さん、宮台真司さん、雨宮処凛さんなど多くの文化人の皆さんにも認められ、活動をしてきました。多くの賞も受賞し、執筆活動や高校生への審査員、ワークショップ講師などの機会も恵まれ、東京はもちろん、故郷北海道から、海外ではソウルまで公演に呼ばれるようになって活動も充実してきました。
それでも何かが違うという思いがありました。もちろんお客様を楽しませるために芝居を書いているのだけども、それだけでは歯がゆい、生きづらい。そんな思いを持ってきました。

話は前後しますが、私が政治に関わるようになったのは2009年。それまで私たちが稽古で利用していたのは、市内に数箇所ある無料で使えた青少年活動センターだったのですが、その値上げ幅はとても当時の私たちには払える金額ではなく私たちはこのままでは劇団が潰れるしかない困っていました。そこで、たまたま知り合っていた市議会議員の方に、陳情に行った結果、青少年活動センターは予定通りの値段になりましたが、代わりにいきいき活動センターが安価で解放され、私たちは潰れずに済みました。

その時わかったのは、政治というのは思っていたより簡単に動かせる。そう知った結果、それならいっそ自分が挑戦してみるか、今まで政治は遠いと思っていた人たちが、身近に相談できる存在になろう。そう思い今回の挑戦を決意しました。